『流行に踊る日本の教育』第4章@独り読書会

第4章 プロジェクト型学習ーカリキュラムにおけるプロジェクトは「メソッド」の再来

私見

プロジェクト型学習は、総合的な学習等、地域に根差した授業などが凡そ当てはまる印象。ただ、個人的には「プロジェクト」であるなら社会課題の解決であったほうがいいということ、そして限られた期間、例えば単元などではなく、1年あるいは3年、もっと言えば中学から高校、大学など学校をまたがるような長期プロジェクトがあってもいい。ここで扱われているプロジェクトは基本的には短期で結果が出やすいものに終止すること、そして課題解決はボランティア・・・・・・・・で行われ、生徒に報酬が与えられることは想定されていない。学校に枠に収まらないプロジェクトがあってもいいではないか?

 
以下pick up
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98
アクティブ・ラーニングの切り札に「プロジェクト型学習」を見いだし、それがメソッドとして提唱されていることについて多角的に考察してみたいと思います
 
101
その意味で、「内容」のみならず「方法」に至るまで教師の教授活動、子どもの学習活動は行政文書により規定·管理されるようになり、自律的·自立的なカリキュラム編成の余地が極めて限定的になってしまっていることにも、この際自覚的であるべきで
 
105
プロジェクトの流行略史
プロジェクト概念は、20世紀の最初頭から世界恐慌前後にかけて、米国の初等・中等教育における進歩主義教育(主には子ども中心主義)の土壌で、教育方法を軸にしてカリ キュラム再編を見通すという枠組みをもって形を成してきたものです。それは、学習経験そのものを計画化しようとする初の試みであったともいえます。19世紀末は、学習内容の組織化がその選択基準とともに検討されてきました。
 
■キルパトリックのプロジェクトメソッド
106

 「学校教育は将来の生活準備説や単なる社会適応であるべきではなく、目的意識を明確にもった生活そのものである」こと

『流行に踊る日本の教育』第3章@独り読書会

第3章 対話的・協同的な学び
 
 
これまで知識教授、知っている者から知らない者への情報伝達、一斉授業と呼ばれるような形式を主たる「授業」として行ってきている。前提としてこのような「対話的・協同的な学び」は知識を活用する学びで必要とされるものではないか。何の知識もない状態ではそう簡単に用いられる手法ではないはず。「知識を活用した先にどのような世界と接続できるか。」これを想定しない授業で対話すれば、教員の授業やった感としての満足感を得させるだけで、学習者には何も残らない。
一方、協同的な学びでは知識伝授の時点でも、話ながら学ぶような姿を想像することができる。とすると、この用語をひとつにまとめることのメリットを再構成する必要があるようにも思える。
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以下picik up
 
074 「あまり深く考えないで、対話·議論しているかのように見せ、期待されている結論にあわせて教師からの高評価をねらう」という「主体性」が発揮されているとも言えます。
 
 
078 ・アクティブラーニングの導入の経緯
「論点整理」の補足資料では、アクティブ・ラーニングを「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた 教授・学習法の総称」と定義し、これを、「新たな未来を築くための大学教育の質的転 換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」(答申用語集 2012(傍点筆者)から引用しています。
 
つまり、大学教育改革の議論のなかで重視されたものから、初等·中等教育が対象の学習指導要領の重点が取り入れられているのです。初等教育から高等教育までの一貫し た改革が推進される際には、こうした混乱が起こりやすく、十分注意が必要でしょう。
 
094
いま必要なのは、教師が子どもや教材、現代的課題を深く理解し、自分の気づきや疑 小さな違和感を「流して」しまわず、深めることのできる時間・空間や仲間を得て、 経験を重ねていけることでしょう。
 
094

対話的・協同的な学びを求める授業は、単純に知識や技能を獲得させていく授業に比べ、不確実性が伴います。しかし、授業で多少失敗したとしても、子どもたちとの基本 的な信頼関係があり、同僚、教育研究サークルの仲間の支えがあると、次の一歩を考えることができます。教師同士の対話的で協同的な学びが欠かせないのです。 こうした取組には、少なくとも時間的な余裕が必要です。少子高齢化が進むからと いって、また、学級サイズが大きくても国際調査でよい結果を出しているからといって、 教員定数の見直しを放棄している場合ではなく、良心的な教師の「サービス残業」がなければ対話的・協同的な学びが成り立たないような状況を変えていくべきです。

 

『流行に踊る日本の教育』第2章@独り読書会

第2章 個別化・個性化された学び

私見

個別化・個性化は強い個人を想定しているという主張には理解。個別最適化の探究は福祉に対する怠惰に陥りやすいため、それを看過しないバランス感覚を養いなさいというメッセージとして受け取った。ただ、古きあの時代の授業は良かった論は何が良くて、今の時代に適用できる妥当性がどこにあるのかを詳らかにする必要がある。そこもバランスとして求めていくことが課題。例えば、教員文化の復活を願う論調は多忙化とぶつかるが、それに対してどのようなバランス感覚で考えているのか?など。

 

046
『学びの自立化・個別最適化』とは、子ども達一人ひとりの個性や特徴、そして興味関心 や学習の到達度も異なることを前提にして、各自にとって最適で自律的な学習機会を提供 していくことである。そのためには、AI (人口知能)やデータの力を借りて、子ども達一 人ひとりに適した多様な学習方法を見出し、従来の一律・一斉・一方向型の授業から、 EdTech を用いた自学自習と学び合いへと学び方の重心を移すべきである」(経産省2019年3月)


049-050
イエナプランは、授業のみならず、学級編制、時間割、教室空間の構成まで含めた包括的な学校改革の構想です。まずイエナプランの大きな特徴は、年齢の違う子ども(お よそ3学年)をひとまとめにして、学級を編制する異年齢学級制度に見て取れます。子 どもは、同じ担任教師の同じ教室に3年間とどまることになり、最上級学年は次のグ ループへと進学した後、新たに最下級学年の子どもがグループに入ってきます。

 

三つの学年が混在する異年齢学級では、子どもたち同士のなかで、自然に教える/教 えられる、助ける/助けられるといった関係が生じるとともに、子ども同士による競争 を軽減し、「できる子/できない子」というレッテル貼りを避けることが期待されます。 しかしながら、日本の学級教育に慣れ親しんだ私たちにとっては、異年齢学級のなか で、どのように授業が展開されるのかはイメージしづらいと思われます。 次の引用はイエナプラン・スクールにおける学習の様子をイメージすることを助けてくれるでしょう。

 


イエナプラン教育でも、子ども達の課題はそれぞれの進度によって決まり、自分がその週に達成すべき課題に対して、自分で必要な時間や順序を考えながら計画し、 責任をもって達成していきます。教材は、可能な限り自分で読んて理解し、練習問題も自分で答え合わせがてきるものを使います。
…多様な教材があること、またそれを自由に選送べることはは、てすから、個別の発達に対する刺激と支援にとって欠くことができないものなのです。(リヒテルズ、2016年)


053
そこで、定期的にリバイバルしてくる個別 今日の動向を検討していきますまず検討すべきは、「現在の日本の教育が画一的であり、その打破が急務である」と いう議論の出発点そのものの妥当性です。個別化個性化を推奨する立場からは、「日本の教育は画一 ・一斉授業である」とい うテーゼが共通認識かのように提示されますが、その際、「画一的である」と判断する根拠は、もはや説明するまでもないといった形でほとんど挙げられません。


063
重要なことは、教育の社会的公正、学力形成、インク ルーシブ教育の実現などの今日的課題に対して、ほとんど唯一の回答かのように個別 化・個性化が扱われ、万能の処方として「マジックワード」化しつつあることに、懐疑的なまなざしをもつことです。

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『流行に踊る日本の教育』第1章@独り読書会

まず、いつものピックアップから
第1章 
資質能力ベースのカリキュラム改革―学校ですべきこと、できることは何か?
 
019
グローバル化、知識基盤社会、AIの進歩、人口減少社会など、変化の激しい社会では、 正解のない問題に対応したり、異質な他者と協働したりできること、新しい価値を創造することなど、人間にしかできないことが大事になってくる。
・これに対して、これまでの画一的な日本型教育では、与えられたことをまじめに丁寧に 手際よくこなす人材は育てられても、イノベーションを起こす人材は育てられないし、終 身雇用も揺らぎ、いい大学を出ていい企業に入社できても、それだけで一生安泰という時代でもない。
・このままでは、子どもたちは社会を生き抜けないし、日本社会の競争力も低下してしまう。
 
こうした語りのきっかけとなったのは、OECD(経済協力開発機構)の国際学力調査 (PISA)でした。

 

 

 
022
コンピテンシーとは、職業的有能性や人生における成功を予測する、社会的スキルや動機、人格特性も含めた包括的な能力、いわば社会が求める実力を意味する言葉
 
 
024
・そもそも教科の学びは知識・技能の習得以上のものではなく、個別最適化(第2章参照)の 学習アプリ(「A1先生」)に基本的に任せてしまえばいい。
 
・ 考えるカや創造性や社会性は、PBLの学習プログラムとデジタルコンテンツで学ぶといったように分担してしまえばいい。
・ PBLに参加する子どもたちに必要な、他者と協働するためのコミュニケーションスキルや、システム思考やデザイン思考にかかわる思考法を個別に特定し、直接的にプログラムで育成していけばいい。
029
「新しい能力」として挙げられる「創造力」「コミュニケーション能力」といったものは、最大公約数的で陳腐な、どの時代でも重要だとされるような、普遍的能力を挙げているにすぎないのです。それどころか「いま、どのような社会で、どのような知や力や スタイルを身につけておくことが有効なのか?」といった、社会のリアルを問う問いに、 人々が向き合うことを妨げているように思います(石井、2015)。
039-040
・「足元の具体的経験や生活から学び、そこで自分の視野の狭さに気づく経験」
・「子どもだましでない嘘くさくないホンモノの面白さを経験しながら、ときに先達の追求の厚みに圧倒され、自らの非力を感じながら、力をつけていく経験」
 
 こうした真正(ホンモノ)の学び (authentic learning)には、挑戦や試行錯誤や失敗が つきものです。家庭や地域や社会が、教師や学校、そして子どもたちをもう少し信頼し、 それぞれの挑戦を見守ることが肝要です。
 そうして子どもたちが人間として成熟するにつれて、敷かれたレールをたどる指示待 ち状態も克服されてくるでしょうし、視座の高まりや人間的成長は、認識の深化をもたらし、結果として、進路保障にもつながることでしょう。
 人が育つということのイメージが、短視眼的で表層的なスキル形成へと矮小化される なかで、人とのつながりや場のなかでじわじわと、そしてときに劇的に生じる認識の転換や、人間的成長にこそ目を向け、「働き方改革」も叫ばれている折、学校や自分たち は目の前の子どもたちのために何をなすべきか、何を捨ててはいけないかを議論していくことが必要でしょう。

 

 石井英真は「真生な学び」が好きですね。対「未来の教室」にはそれが本当に必要なのか?と問うていますが、自身の概念についてはあたかもそれが敷衍されているかのように最後にまとめています。「何が真正な学びなのか?」「それは真生な学びなのか?」といった問いを生み教育現場で逐一特定していくことになることは、参考文献の一著者に挙げられていた中村高康(2009)の「メリトクラシー再帰性」ならぬ「授業の再帰性※」なるものを絶えず呼び込むと思うが、それでもその概念を持ち出す理由その良さを知りたい。

 

※勝手に定義。:この授業はXの授業か?行った授業を対象として言及し続けること、あるいはそれが止まらない様。

 

中村高康(2009)「メリトクラシー再帰性後期近代における「教育と選抜」に関する一考察」『大阪大学大学院人間科学研究科紀要35,pp.207-226.

 

 

『流行に踊る日本の教育』序章@独り読書会

今日は序章をピックアップします。

まずはピックアップ。

序章 新しいものにとびつく前に、当たり前をやめる前に

010

教育について必ずしも専門的知見をもたない人たちの教育論が、教育専門家の見解を経由せずに、それ以上の声の大きさをもって、教育政策や教育実践に影響を与えているという点

 

・言説・提言の受け止め方について

012

「それは本当に新しい?」

「過去に日本で同じようなことはなかったの?」

「実際、他の国ではどう実践されているの?」

「問題はないの?」

「海外や過去においてどんな議論があるの?」

「他の可能性はないの?」

「そもそも何を目的としているの?本当に大事なことは何なの?」

 

015-016

「特にいま、なぜ教育は流行に踊りがちなのか」

「スマートで、一見キラキラして見える流行の語りや、実践にありがちな落とし穴はどこにあるのか」

「教育学や教育研究のあり方に課題はなかったか」

「いま何を見失ってはいけないか」

 

 

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・言説・提言の受け止め方についてを解読

012

「それは本当に新しい?」

=論説の新規性

「過去に日本で同じようなことはなかったの?」

=事象の類似性、歴史

「実際、他の国ではどう実践されているの?」

=比較教育学的視点

「問題はないの?」

=論の裏を読む

「海外や過去においてどんな議論があるの?」

=これも比較教育学的視点×事象の類似性、歴史

「他の可能性はないの?」

=唯一解への懐疑、別様に開かれる可能性の模索

「そもそも何を目的としているの?本当に大事なことは何なの?」

=ヒドゥン・カリキュラム

最近思い至った本(評論)の読み方

最近思い至った本(評論)の読み方

 

・本/論文は終わりのある言葉の塊であるから、どこかで必ず思考停止する。

→著者の思考停止の妥当性をフィードバックすることで、問いないし答えや解が新たな方向へと向かう。新たな可能性に拓ける。

 

・本を現状分析と規範・当為論に切り分ける。

→現状分析の妥当性、規範・当異論の妥当性をそれぞれ吟味する。

デジタルシティズンシップ/デジタルリテラシー

デジタルリテラシー/シティズンシップの違い、以下引用。

Digital Literacy programs are an essential element of media education and involve basic learning tools and a curriculum in critical thinking and creativity.

Digital Citizenship means that kids appreciate their responsibility for their content as well as their actions when using the Internet, cell phones, and other digital media. All of us need to develop and practice safe, legal, and ethical behaviors in the digital media age.

 

Digital Citizenship programs involve educational tools and a basic curriculum for kids, parents, and teachers.

 

Common Sense Media(2009)Digital Literacy and Citizenship in the 21st Century

https://www.itu.int/council/groups/wg-cop/second-meeting-june-2010/CommonSenseDigitalLiteracy-CitizenshipWhitePaper.pdf(2021/01/08取得) 

 

リテラシー/シティズンシップの棲み分けは前者はツールの活用方法などの基礎的な内容、後者はその応用。