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周りの大学生はぬいぐるみ

 大学にいると、学部5年生なんてイリオモテヤマネコと良い勝負をする位には、教育学部では絶滅危惧種である。周囲は見る顔見る顔が知らない顔ばかり。こうも知らない顔ばかりだと、こいつらは果たして全員、本当に人間なのだろうかと疑ってみたくなる。その疑いの末、行き着いた先が彼らはぬいぐるみだという仮説だ。

 

 個人的な話になるが、私はぬいぐるみが好きである。彼らは自らは語りかけてはくれないもの、常に愛おしい存在として傍にいてくれる。しかし、その愛おしい存在となるのは、自分の周囲にいる時だ。自分の側にいない、例えばどこかのお店で今売られているぬいぐるみを愛おしいとは、たとえぬいぐるみ好きとはいえ思わない。私の好きなぬいぐるみとは自分の周囲に留まり続けてくれるからこそ、つまり自ら移動せずに常に愛くるしい表情を浮かべながらそこにいるからこそ好きなのだろう。

 

 こうして考えてみると、大学、社会にいる、人間の形をした様々なぬいぐるみは、常に移動をする。私の想定通りに移動することはまずない。そして常に愛おしい表情を見せてくれるわけではない、むしろそんなことはまずない。場合によっては彼らは危険や脅威となることさえある。

 

 だからといって排除するわけにもいかない。それはこちらの勝手な都合である。そこにいる、存在している以上はその存在を認めざるを得ない。しかし、だからといってその相手がその存在を認めてくれるとは限らないというより、まずないと考えるのが、彼彼らをぬいぐるみとして考える視点からは自然だろう。そして、そのぬいぐるみは自ら

動いている、言い換えれば意志/思があるように見えるが、欲望のミメーシスに突き動かされている以上、私以外、つまり他者/第三者によって操られているに過ぎない。

 

 人間を人間として素直に捉えられる人は、いくらかまだそれなりの優しさが残っているような気がした。自分自身もぬいぐるみとして彼らの前に立ち現れて、コミュニケーションをするよりかは、ぬいぐるみの動向を見守っていたい。