勉強できない人へ。勉強法/学習法(記憶法)を考えてみる。:付箋学習法

 なんで試験に失敗したのかなあと思ったら、やりたい記憶法を忘れてしまって、従来の書いてまとめるだけの方法に囚われていたからかなあと思いました。(下の写真のように)

f:id:barndoorfowl:20150906125934j:plain

 

 これに色分け、線引き、絵図を付け加えたりするんでしょうけど、結局こうしてまとめたものは、まとめただけ。読み返しでもしない限り、記憶に留められないただの自己満足になってしまうんですよねえ。

 

ノート等にまとめるメリットは

・自分で整理出来るため、あるいは書いているために記憶にとどめやすい

・後で読み返すことが出来る

デメリットは

・時間がかかる

・紙に直接書いてしまうため、切り貼りでもしない限り再構成することができない。

 

 時間がかからない勉強法なんて無いので、それはやむを得ないものとして置いといて、2つ目のデメリットを克服しようと考えました。

 

 そこで、考え付いたのが付箋学習法です。

f:id:barndoorfowl:20150906125941j:plain

 

付箋学習法はノートのまとめ方の下部類型です。従来のノートのまとめ方では、先述したように、後で再構成できませんでした。これでは、まとめればまとめるほどノートの枚数が増えていくように、記憶の仕方が1+1+1・・・のような加法的な記憶方法で蓄積していってしまいます。この方法では、他の知識との繋がり、関連性が見えにくいままです。例えば、英語の教科書に載っている新出単語なんて、まったく繋がりが無い状態で、教科書の隅に縦に並べられていますよね、あんなイメージです。

 

 しかし、付箋学習法であれば、あとで構成の仕方を変えられるため、従来の方法よりも繋がり・関連性を持たせてノートをまとめることが出来ます。先ほどの英単語を用 いて考えれば、新出単語の反意語や類義語、変化形(形容詞、副詞、名詞、動詞等・・・)を蜘蛛の巣状にまとめることができ、且つ後で更なる繋がりを見つけ た時に、容易に作り直せます。(新たなページに行く、書き直す等の必要が無い。)

 

でも、付箋って割高なんですよね。と思ったら、付箋のような糊が既に売られているようで。世の中は便利です。これなら自分の好きな紙も付箋に出来ますし、ごく普通の付箋は片側しかつけられていなくてはがれてしまうことがありましたが、自分で塗ってそうならないように出来ますね。ありがたや。

www.amazon.co.jp

 

 繋がりを見出しにくい記憶、テレビから流れてくる情報と自分が見ている周囲の風景を同時に覚えることは、よほど何かしらの意識を持たない限り困難です。そうやって考えると、記憶には繋がり・関連性が大事であることがわかってきます。つまり、記憶にとっては量も大事ですが、繋がりや関連性も、いやむしろそれらの方が量よりも大事なのかもしれません。

 

最後に一言残しておこうと思います。

 

記憶は足し算ではなくさつまいも。

 

私の方法は、アナログなのでプログラミングしてアプリとして作って、1枚の巨大な紙に、様々な大きさの付箋を貼っていくものが出来たらなあと思っています。(協力者募集)

 

 

 

f:id:barndoorfowl:20150906135409j:plain

 

 

 

 

 

夏休みの宿題は子供を馬鹿にする

 いえ、そんなことないです。使い方次第です。ただ、その可能性が大いにあることを強調しておきたいと思い、ここに書き連ねます。

 

 一言で夏休みの宿題と言っても、様々な種類があります。今、私が考えられる大まかなものでも、

①主要5科目(国数英理社)のワーク

②作文、日記(読書感想文、英作文、神奈川周辺なら税の作文や人権作文など)

③自由研究

④絵画

稀ですが⑤家庭科の宿題=家事関連

 

が考えられます。

これらすべてを自分で出来る超優秀な学習者だったら是非やってもらいたいものの、そんな優秀な学習者でさえ、害になり得るんですよね。その害は特に①に関してです。

 

 

 

f:id:barndoorfowl:20150813213331j:plain

  

 夏休みの宿題の主要5科目のワークは、出来る子と出来ない子の間のどちらでもない、いわゆる「標準レベル」に合わされています。これにより出来る子と出来ない子にはレベルが合っておらず、前者からすれば退屈なもの、後者からすればわからなすぎて、提出するだけのただの答え写しか、それすらもやらない紙っぺらの何かでしかなく、彼ら両者のそのワークにおける取り組みは、そのワークで得られる知識を内面化出来ていない時点で、学習ではなくただやるだけの作業に転化しています。

 

 そのようなことに時間を費やすくらいなら、他の何か興味のあるものや自分のレベルに合った学習をしてもらった方がよっぽどましです。私は塾や家庭教師をやっていますが、子供達が持ってくるワークの中には、どうやったらいいかわからない、ただの問題集の時があります。出来ない子にとってはそのようなワークでは、彼らが持つ知識を生かして、更にその知を伸ばすような学習ができないのです。

 

 私がもし親になったら、夏休みの宿題の全てを私がやります。あるいは、時間がなくお金があれば宿題代行サービスに頼みます。何故なら、ただやるだけ、作文や絵画ですらどうやっていいかわからずただ書くだけ、描くだけ。出したらこういった改善をすれば良かったといったようなフィードバックは貰えず、自分の作文・絵画の力を更に伸ばす機会が無いからです。そんなことに夏休みという素晴らしい時間を、子供には費やしてもらいたくないのです。そういった力を伸ばすのであれば、そういったフィードバックがもらえる環境、たとえば、絵画教室に通わせます。(これもお金があればですが。)(文章力を身に付けられる環境って、今考えると見当たらない。今思えば文章力って学校教育に相当依存していますね。)そして出来ない子に対しては、自分か宿題代行サービスがワークをやっている間、復習させ、理解できた単元について後でそのもらったワークを活用します。

 

 夏休みの宿題を終わらすことが目的ではなく、目的は①自分の力をさらに伸ばすこと、②興味関心をさらに広げること、③学習習慣を維持すること、確立することです。宿題を終わらすことはそのための手段にすぎません。しかし、中学校においては宿題を終わらすことが、各教科の関心意欲態度に関わる=成績に関わっているのが実情です。それは更に言えば、高校入試に自分の成績が反映され、出来る限り成績を良くしないといけないことと繋がっています。

 

 最後に重ねて、夏休みは夏休みの宿題のためにある訳ではなく、自分自身の力を更に身につけることにあります。自分は何がしたいか、何をもっと身につけたいか、そんなことを考えてもらう時間であってほしいと思います。(もちろん息抜きも必要です。)自身にとって糧となるような夏休みになるよう願っています。

求められる現代の組織像-自由としての移動(mobility)の加速化

 人と人が集合し、一定の同一性を目指す現代の組織は、そこに入ることも出ることも一定の困難さを抱えている。例えば、企業に入るためには、熾烈な競争を他者と二三度繰り返さなくてならない。あるいはそういった競争を避けるために、事前に企業側の人間と一定の関係性を構築しなくてはならない。また、その集合体・組織が求める限り、出ることも容易ではない。例えば、これも企業を例に取るが、ある企業に属していて、そこから離れようと「辞めます」と言って単に出ることは可能かもしれないが、それを実行するには、たとえその組織から出られたとしても、つまり「組織に属する個人」から「個人」となったとしても、生活できる余裕が無ければならない。あるいは、その組織に出ることは、その組織の属する人間のアイデンティティなるものを一部拒否することを意味することから、人間関係が疎遠になる、といったことが挙げられる。

 

 ゲマインシャフトゲゼルシャフト(英訳:community and society、邦訳:共同社会と利益社会) という言葉がある。ドイツの社会学者であるテンニースによって作られた言葉である。前者は、「構成員一人ひとりのために存在する組織であ」(1)り、「肉親や家族といった血のゲマインシャフト、近隣や村落といった場所のゲマインシャフト、都市や朋友といった精神のゲマインシャフト」(2)といった類型がある。つまり、ゲマインシャフトはall for oneである。一方後者は、ある目的を実現するための組織であり、その特徴として契約や、協定があり、その中の個人は「行儀よく振る舞うことや装うこと、すなわち社交が重視される」。(2)ゲマインシャフトがall for oneなのに対し、ゲゼルシャフトはone for allである。私たちのほとんどはこのどちらにも属している。そして、ゲゼルシャフト≒企業中心社会が我々の生活を握っている。

 

 移動に則して2点を見ると、ゲマインシャフトでは、個人がどこへ移動しようが構わないが、ゲゼルシャフトでは移動が目的にそぐわなければ、絶えずその組織の利益を追求するため、個人が自由に移動することは出来ない。これにより個人はゲゼルシャフトのその不自由さ、個人の興味関心をないがしろにする疎外によって疲弊する。それでもなお。ゲゼルシャフトは利益を追求する。しかし、そのゲゼルシャフトが求める利益は合理性のみによって成立するのだろうか?利益を追求しすぎるあまり、その目的に従事する個人の仕事内容は必ずしも自分の興味のあるものではないことから、彼らは疲弊し、疎外され、効率が悪くなっている事態は全く起きていないのだろうか?

 

 現代の組織は、ゲゼルシャフトが中心的な役割を担っている。しかし、それでは個人はないがしろにされる一方である。そうではなく、個人を保護しつつも利益を追求できるよう、個人のゲゼルシャフトゲマインシャフト化することが求められているのではないだろうか?具体的には個人の移動を出来る限り保証し、それを加速化させ、組織立った組織が持つ秩序性を緩め、組織を出入が困難な城郭から出入の容易な海へと変容させながらも、その海としての利益を追究することが求められている、そのように感じる。

 

 

参考文献

(1)社会保険労使士事務所 早稲田労務経営 http://www.waseda-hm.com/article/13712298.html08/11/15取得

(2)土井文博・荻原修子・嵯峨一郎編(2007)『はじめて学ぶ社会学ー思想家たちとの対話』ミネルヴァ書房

 

 

 

 

恋愛における「付き合う」

 「付き合ってください」と告白の時に言う。その返事がイエスであれば、お付き合いが始まる。いわゆる彼氏/彼女の関係の始まりである。では、抽象度を上げてもう1度そのコミュニケーションを捉えると、内容が「Aして」「はい」というシンプルなものであることがわかる。更に、それを具体に戻せば、「おつかい行ってきて」「はーい」という親子のやり取りと共通していることもわかる。また、「ちょっと付き合ってよ」と同僚に言われることもある。更には、言語の視点から見ると、この「付き合ってください」は、その関係性を一定期間保持することを認め合うものであることから、約束、あるいは契約と言い換えることが出来、それらと一定の共通性があることがわかる。ここでは、そのようなお付き合いの中でも、お付き合いの言葉の中で、最初によく連想される恋愛でのお付き合いに焦点を当てる。

 

 しかし、一見シンプルなこの「付き合ってください」「はい」には、膨大な情報のやり取りが瞬時に行われている。いや、この場合はシンプルだからこそ、そのようなやり取りが行われていると言っていいかもしれない。

 

 もし、この約束・契約に何も問題が無ければ、こうして書き連ねることもないだろう。その問題は、そもそもコミュニケーション自体が不確実であることに起因する。このお付き合いという関係における軋轢、要するにケンカは、コミュニケーションの不確実性によって生じている問題の1つである。相手がどこまで「付き合ってほしい」と思っているのかそして、相手からは自分がどこまで「付き合ってほしい」のかがわからないのである。

 

 そこで、優しい人は全てに付き合うことを「付き合う」と言うかもしれない。果たしてそのようなことは可能だろうか。

 

 私の答えは厳密にはイエスであるが、実質的にはノーである。全てに付き合うことを付き合うともし言うのであれば、その関係性は「付き合う」というより、同化、あるいは同調の強制だろう。相手は全てに付き合ってもらえることをいいことに、このようなコミュニケーションを可能としてしまう。「これに付き合えないのであれば、今すぐお付き合いを止めろ」と。そのような関係性を良しとするのであれば、イエスであるが、そのような脅迫じみた奴隷のような関係を自ら継続しようとする人はなかなかいないだろう、だからノーである。

 

 そのノーの理由は、私とあなたにはわざわざ言葉が分かれていることからもわかるように、差異がある。その差異から更に考え、行動するのだから、考え、行動が異なることは当然だ。そのため、お付き合いは実質的に、「付き合うことに付き合う」だけではない。「付き合わないことにも付き合う」こともある。例えば、「夕飯どっか食べにいこうよ」と片方が言う。「うん、行こうよ」と返事が来れば問題は無いが、「いや、ごめん。行きたくないんだ。」と返事が来たとする。誘いが断られたことは残念ではあるが、だからといって関係性を断つことにはなるまい。「今回はしょうがないかな」と思い直すことだろう。たとえ、それが積み重なったとしても、自分が「もう嫌だ」と思わない限り、その人は「お付き合い」の関係性の維持に開かれている。

 

 とはいえども、優先度がどんな時も低くては、他の人間関係との差異が曖昧になる。そこで、「お付き合い」とは、一定の優先度を保ちつつも、状況に応じてその優先度が変わることを許容することではないだろうか。自分の考える「付き合う」に相手を同調させようとする、がちがちに固まったお付き合いを相手に求めるのではなく、付き合ってくれないことにも付き合えるような柔らかさを含んだお付き合いを求めることがお付き合い。そうすれば、思い通りにいかないこともお付き合いに含まれるのだろう。なるほど、だからこそ「ケンカするほど仲がいい」と言うのかもしれない。