脅迫されたポジティブに満たされる個人

 複雑性を縮減するために構築された様々な諸システムではまかないきれない問題の残余の解決を個人が担わなくてはならない(ルーマン風)。こうして責任や問題が個人化され(ベック風)、1人1人が解決できないような問題に対して挑む。ラスボス vs 雑魚の構図。テクニックやスキルの中で解決してラスボスを倒せればいいものの、そうはいかない。

 となると「いける、ラスボス倒せる」と思い込むポジティブ人間となって、体力尽きるまで持久戦にする/なるか、神風特攻隊のように、あるいは『魂のルフラン』が流れる中で闘うアスカみたいに儚く散るか、の2択となる。

 フロイトが作って彼の娘が整理した「防衛機制」。これで言うとポジティブは防衛機制ではない合理的選択か、防衛機制の1つの「逃避」(他にもあったら追加の指摘してください)。なぜなら、立ち向かえない問題に対して倒せるという空想に逃げ込んで振る舞ってしまうから。

 これが特定の田中太郎さんだけにしか見られないものだったら、「田中太郎さん(だけ)は解決の行き場がなくなった時にポジティブになる」で済むんだけれど、どうもポジティブ任せな人達が見られるので、どんな人がどのような状況に対してポジティブとなる、あるいはポジティブを原動力とするきっかけとなる出来事はなんだったか、気になる。

 例えば、長時間労働に苦しむサラリーマンや教員に見られるポジティブ。これはポジティブと一元的に語られてしまうポジティブの中で何か変わった特徴を有するのか。ちょっと気になる。

 でも、これだとポジティブの特徴と傾向の特定になってしまうから、どの文脈や環境、他者との相互作用によって、つまり社会構成主義的に形成されるかみたいなところも追っていけたらいいのかな。まずは身近な教員からかしら。

 この記事の読者の中でポジティブが気になる方がいましたら、自分の周囲のポジティブを気にしてみてください。その時の発見があって、共有してもいいよと思っていただけるのであれば、私に教えてください。