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教育における実践の射程:オリエンテーションでの言葉を踏まえて

 「他の大学院とは違って、本学の大学院では実践を重んじる」そうです。ただの挨拶だと思って聞き流せばよかったのですが、どうも耳に残り、「振り返れ」と脳が指示しているような気がして、ここに書き連ねることにしました。この「他の大学院とは違って」と「実践を重んじる」という発言に至る要因はどこにあるのでしょうか。そしてそれはどのような効果、あるいは問題を生むでしょうか。以下ではこれらの要因、効果、問題を検討していきます。

 

「他の大学院とは違って」、「実践を重んじる」要因検討

要因①:文科省からの予算配分、研究費獲得

 独立行政法人となった国立大学は、予算は国家に握られ国家からの評価を絶えず受けながらも、運営は自身に任せるという構図になっている。そのため、大学は常に国の「顔色」を窺いながら、自身を運営することが求められていることがわかる。その中で大学が予算、研究費を獲得するためには、他の大学の真似事をしていてはそのコトを行っている元祖の大学に予算を奪われてしまうため、独自性に富んだ取り組みを行わざるを得ない。旧帝大のような大学では、既に理論的な研究に打ち勝って予算を獲得することは困難と本学は踏んでいる。つまり、「他の大学との差異による予算獲得のため、旧帝大の強みの理論とは異なるような実践を重んじる。」ということである。

 あるいは、差異が領土、場だけでは評価されていないという言い方も出来る。神奈川唯一の国公立大学での教員養成系という位置づけだけでは不十分なのだろう。場が異なるのは当然だと。その場から超える、脱領土化された、より「普遍的な」価値の差異の中で他大学と競争しなくてはならない。

 

要因②:教育問題の山積

 あるいは、こういう言い方も出来る。教育は問題だらけ。その問題を解決できていない。理論だけでは現場が「どうその理論を用いればよいか」という問いに応答できていないことがある。そして、理論と現場の間に距離が生まれる。そこで、本学が理論を現場へと橋渡し、あるいは実践において「使える」ものを提供することで、社会のニーズに応えようとしている、のだろう。

 

効果:「評価獲得」の比較的容易さ

 実践を重んじれば、その効果を理論よりは比較的容易に検証することが出来る。また社会のニーズに理論よりは比較的早く応えているとも言える。

 

問題:「安易な現場主義」は「安易な『学校=現場』主義」

 T先生は実践を重んじることは「安易な現場主義」に陥りかねないことを指摘していた。確かに、現場に追従するだけでは理論を軽視しかねない。そこで、「実践を重んじる」ことを、「理論―実践における実践の強調」と言い換えておこう。つまり、実践を重んじるこことは、理論を軽視するのではなく、理論を現場へと橋渡ししながら、より有用な実践を開発・形成していくことである。

 しかし、この「現場」とは具体的にどこを指しているのだろうか?学校だけだろうか?学校が教育の最大の担い手、中心であることは認めるにしても、学校が現場という言葉を独占することは、教育の機能が個人・家庭・企業・地域・社会・環境それぞれが担っているころから、困難である。つまり、学校は教育の「一」現場に過ぎない。仮に、現場=学校という構図が出来上がっているとすれば、それは「安易な『学校=現場』主義」として、その実践が批判的に検討されなくてはならないだろう。また、何故学校が現場という言葉にすり替えられてしまうのか?という問いを基に、現場が学校という組織に統一されることなく、多様な個人、集団の中で、あるいはそれらと連携しながら教育における実践を検討していく必要がある。

 よって、教育における実践の問いは以下のように移行・細分化される。従来は「いかに学校での実践をカイゼン・カイカクするか」という問いばかり検討されてきたが、まず、①「中心とされる学校が、周縁よりも優位に立つ実践/周縁が比較優位な実践とは何か」を決定し、学校自身での実践の範囲、射程を決めた後に、②「(中心/周縁それぞれの)優位性に立つ実践は社会にどのように求められているか」について言及し、③「その実践が継続するに値するものかどうか」について説明する。ここまでは中心/周縁と分離し、それぞれの実践の検討についてだが、その検討に加え、中心と周縁が双方関わるという連携の中での実践について、①~③の問いに関して言及・説明しなくてはならないだろう。

 ここまで教育における実践の範囲が学校に留められてしまっている仮説という「閉じ」から、個人や他の組織における教育の実践という形で、教育実践の可能性を開いてきた。ただ、これまでの私の説明は、「閉じていたものを開け」と述べているにすぎず、「どのように開いていくか/いけばよいか」という問いについて言及していない。この私の微々たる開きから、多様な「主体」が教育実践の可能性をを更に開いていくことを期待している。