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「勉強ができる」を考える

  • 勉強ができる→努力できる 

 テストの点数さえとれてしまえば、学校では「勉強ができる」ことを意味するのでしょう。しかし、程度の差は人によってあれども、勉強ができるためには一定の努力を要します。とすると、「勉強ができる」ってのは努力できるということではないでしょうか。

 

  • 努力できる→努力を継続できる

 この努力できる、ってのは言い換えれば努力を継続できることだと思うんです。短髪短時間の努力のみでは、脳は平気でせっかく記憶した情報を忘却していくため、努力した効果も発揮しづらいですし。時間という尺度の中で継続性という指標の下、個人はある程度時間に拘束される必要があるんです。

 

  • 努力を継続できる→出来るかどうか定かではないことへの挑戦を継続できる=情報を周囲の規範を基に選択できる→優先すべき、あるいは必要な情報が何かが理解できる

 しかし、ただ努力を継続したところで、結果を生むとは限りません。1+1を毎日1万回やる努力をされても困ります。出来るかどうかわからないものに取り組み続けることが必要です。つまり、何をやるべきか情報を選択できる能力が必要です。学校のテスト前に出来るかどうか定かではないラスボスのステージをクリアするという努力をゲームでされても困ります。学校は授業の教科の勉強をすることを望んでいます。英語は望んでいても、フランス語はあまり望んでいません。つまり、学校のテスト勉強においては、どの内容をやった方がいいかを選択しなくてはなりません。

 

 

 以上の点を踏まえると、「勉強ができる」とは努力の継続×情報の選択能力によって形成されるものだとわかります。これを踏まえて自分が塾講師や先生になったと仮定して考えると、勉強、つまり学習というプログラムに介入する以上は、徹底的に努力の継続と情報選択能力を身につけさせなくてはなりません。情報選択能力については、今までの学校教育や塾はカリキュラムといったプランによって介入してきたと言えます。しかし、努力の継続性に介入することはなされてきませんでした。それは何故でしょうか。

 

  • 習慣への介入=困難

 その答えは習慣への介入の困難さです。どんなに「Aやったほうがいい」と言っては情報を制限して、より良いと思われる情報を選択させようと仕向けたところで、何もやらなかったら意味がありません。しかし、だからといって「Aやったほうがいい」と言ったその場以外の場で、実際に努力を継続させているかどうかを確かめることは容易ではありません。たとえ毎日何を何時間何分やったか書かせたところで、本当にやったかどうかは四六時中一緒にいない限りは確かめようがありません。

 

  • 優先度:努力の継続性>情報選択能力

 努力を継続させるために、努力する習慣を身につけることが何よりも必要です。たまたまちょっとやって結果が出たところで、その結果を評価するのは、結果が良かったかどうかに過ぎず、過程を考えられません。努力を継続できて初めて、その過程を含めたパフォーマンスをある程度評価することが出来ます。しかし、残念ながら上でお話したように、個人の習慣へ介入して、周囲から身につけさせるには、周囲に常に監視される状況を作るしかありません。そのような環境を作ることが困難であるなら、自分で努力を継続していくしかありません。

 

 勉強ができないならできないなりに、情報を選択し、その選択が周囲に適しているかどうか求め確かめながら、勉強をやってもらいたいものです。