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恋愛における「付き合う」

 「付き合ってください」と告白の時に言う。その返事がイエスであれば、お付き合いが始まる。いわゆる彼氏/彼女の関係の始まりである。では、抽象度を上げてもう1度そのコミュニケーションを捉えると、内容が「Aして」「はい」というシンプルなものであることがわかる。更に、それを具体に戻せば、「おつかい行ってきて」「はーい」という親子のやり取りと共通していることもわかる。また、「ちょっと付き合ってよ」と同僚に言われることもある。更には、言語の視点から見ると、この「付き合ってください」は、その関係性を一定期間保持することを認め合うものであることから、約束、あるいは契約と言い換えることが出来、それらと一定の共通性があることがわかる。ここでは、そのようなお付き合いの中でも、お付き合いの言葉の中で、最初によく連想される恋愛でのお付き合いに焦点を当てる。

 

 しかし、一見シンプルなこの「付き合ってください」「はい」には、膨大な情報のやり取りが瞬時に行われている。いや、この場合はシンプルだからこそ、そのようなやり取りが行われていると言っていいかもしれない。

 

 もし、この約束・契約に何も問題が無ければ、こうして書き連ねることもないだろう。その問題は、そもそもコミュニケーション自体が不確実であることに起因する。このお付き合いという関係における軋轢、要するにケンカは、コミュニケーションの不確実性によって生じている問題の1つである。相手がどこまで「付き合ってほしい」と思っているのかそして、相手からは自分がどこまで「付き合ってほしい」のかがわからないのである。

 

 そこで、優しい人は全てに付き合うことを「付き合う」と言うかもしれない。果たしてそのようなことは可能だろうか。

 

 私の答えは厳密にはイエスであるが、実質的にはノーである。全てに付き合うことを付き合うともし言うのであれば、その関係性は「付き合う」というより、同化、あるいは同調の強制だろう。相手は全てに付き合ってもらえることをいいことに、このようなコミュニケーションを可能としてしまう。「これに付き合えないのであれば、今すぐお付き合いを止めろ」と。そのような関係性を良しとするのであれば、イエスであるが、そのような脅迫じみた奴隷のような関係を自ら継続しようとする人はなかなかいないだろう、だからノーである。

 

 そのノーの理由は、私とあなたにはわざわざ言葉が分かれていることからもわかるように、差異がある。その差異から更に考え、行動するのだから、考え、行動が異なることは当然だ。そのため、お付き合いは実質的に、「付き合うことに付き合う」だけではない。「付き合わないことにも付き合う」こともある。例えば、「夕飯どっか食べにいこうよ」と片方が言う。「うん、行こうよ」と返事が来れば問題は無いが、「いや、ごめん。行きたくないんだ。」と返事が来たとする。誘いが断られたことは残念ではあるが、だからといって関係性を断つことにはなるまい。「今回はしょうがないかな」と思い直すことだろう。たとえ、それが積み重なったとしても、自分が「もう嫌だ」と思わない限り、その人は「お付き合い」の関係性の維持に開かれている。

 

 とはいえども、優先度がどんな時も低くては、他の人間関係との差異が曖昧になる。そこで、「お付き合い」とは、一定の優先度を保ちつつも、状況に応じてその優先度が変わることを許容することではないだろうか。自分の考える「付き合う」に相手を同調させようとする、がちがちに固まったお付き合いを相手に求めるのではなく、付き合ってくれないことにも付き合えるような柔らかさを含んだお付き合いを求めることがお付き合い。そうすれば、思い通りにいかないこともお付き合いに含まれるのだろう。なるほど、だからこそ「ケンカするほど仲がいい」と言うのかもしれない。