①概念としての評価と実態としての評価 、②遊びの理想化について

①概念としての評価と実態としての評価

「気に食わない」と一蹴されたことが気に食わなかったので、/「気に食わない」は「気に食わないので詳しく」ということだと思って、気が済むまで書いてみようと思います。

 

 まずは言葉遊びではないが、並び替えてみる。逆にして、評価の概念とその実態と言うとしっくりくる。ここで言う、実態、概念はなんだろうと考えてみると、

 

評価の実態=概念+制度化されている(学校、就活、試験等)

評価の概念=概念ー制度化されている→僕が指す概念は概念ではなく別の何か

 

→制度化された評価に対する問題視であることがわかった。=A先生の指摘通り

 

 制度化された評価の問題点は、別様であることが不可能な点。評価を用いて他になろうとすれば別様になれるが、問題はその意思が無ければその評価で確定し、固定化される。例えば国語で1を取ると、それで終わる。「いや、私は2!3!」と言ってその評価を拒絶することが出来ない。

 

 学校教員が用いる「評価は必要」論は、「生きていく上では他者準拠が必要」に過ぎない。他者は必ずしも教員である必要が無いため、他者準拠が必要なことを理由にして教員の評価を正当化させることは出来ない。児童生徒に「先生の評価は、授業でのパフォーマンスしか見ていないから、その教科の評価ではない。よって嘘偽りでしかない。」と言われても対抗できない。

→学校教員による評価は不必要。他者の評価は必要。

 

②遊びの理想化

 「遊べばいい」かのように話が終わってしまったのは、多分遊びと労働を分離して、今は労働ばかりになっているから、少しは遊んだ方がいいのでは、位の「遊べばいい」という意見だったのでは。求めているのは、遊びと労働を統合して、常にどちらもできるような状態にしておけばいいのでは。

 

 次に、労働を失敗のできない活動(小さい失敗は出来るが致命的なミスをすると解雇される)と、遊びを失敗のできる活動(ゲームオーバーになっても大丈夫)と捉えて、考えてみる。失敗を極端な話、地球爆発位の失敗だと困る。失敗に対してある程度許容範囲があることがわかる。そうなると、「現代社会は失敗に対する寛容が出来なくなってきているから、遊びを媒介にしてちょっとは寛容的になろうぜ」ってことになりませんかね。そうすると、上の今は労働ばかりになっているから論と同じになる。

 

 遊びを理想化してしまうと、遊びを悪用する人が出てきてしまう、例えばテロは遊びだ!と言って「正当化」しようとする。それはさすがに困ります。

 

 あるいは、遊び/労働論は「他者の距離が遠すぎる/近すぎる」ことを問題視しているのかも。過度に労働になれば、主体の物象化が進行し、しまいには「単純な機械」と思われる。あるいは物象化による疎外によって、他者との距離が自分の必要以上に近くなる。(例:労働は自分のためでしかないのに、労働するには、他人のために働かなきゃならないから、お客さんの前では愛想笑いを振る舞ってなきゃいけない)

 

とメモ書き程度ですが。(要するにコメントください)

 

 

 

 

学生を追い出す大学

 大学で学生が使える空間が今、大学の権限によって縮小されてきている。その理由は、高等教育そのものの予算が削減されていることから、どこが「無駄か」を大学側は考えなければならなくなっているためだ。

 

 「禁止」の文字が以前より見られるようになった。以前は無かった「学生の印刷室使用禁止」、「部屋の利用禁止」が部屋に掲げられるようになっている。

 

今日もその場面に出くわした。普段研究で使っている部屋に「授業で使用させていただきます」と張り紙がされていることに気付いた。

その部屋の中では「当たり前」のように授業が行われていた。

 

 この部屋を建物賃貸借に置き換えて考えてみると、

急に家地主が「立ち退け」と言ってきた。しかし、契約は継続が原則だ。正当事由が無い限りは立ち退きを強制することは出来ない。そこで、家主は「授業で使用するため」という「正当事由」を掲げてきた。

 

果たしてこれは正当なのか?他に利用できる教室はいくらでもある。もちろん私自身ももちろん他に利用できる空間はある。しかし、習慣的に今まで使ってきたにも関わらず、急な立ち退きは可能だろうか?

 

仮にこの要求が正当であったとしても、その様相は大学が「学生は授業料だけ払え。私達の施設を出来る限り利用するな。他でやれ」と学生に言っているようである。

大学にとって学生は授業を受けている時以外は邪魔なのだろうか。そのような大学は大学と名乗っていいのだろうか。地域や企業と連携する前に、学生の存在を蔑にしてはいないだろうか?

 

 

 

人助け、お手伝いの可能性

 人助けやお手伝いは、困っている人からすれば、度が過ぎて余計なお世話にならない限りは、助かるありがたいもの。

 

でも、これ手伝う側の人間にとってもありがたいものなのでは?

 

①自己表現の場を1つ設けることが出来る

 私を例に取れば、今の私は閉鎖的。ゼミとバイト位しか人に会うことがない。自分を表現する場はこの2つ。もちろん、最近では他人と知り合うことはまずない。

 この状況を、人助け・お手伝いを媒体にすることで、自己表現できる場を増やしていける。

 

②学習できる

 お手伝いや人助けのほとんどがきっと自分の知らない世界。その世界に身を投じるのだから何か学びになることがあるはず。

 

と思って、人助けって良いなあと。これを「問題解決学習」や「プロジェクトメソッド」やらの視点を取り入れて、塾開けないかなあと。

 

話題は少し変わりますが、他にも「○○おばあちゃんの料理教室」を中高、大学生向けに開いて「自分で生活できる術を身につける」ことを目指すことなんてできないかなあ。この教室から高齢者と若者の繋がりが生まれてくれないなあと。妄想。

 

 

 

『遊ぶヴィゴツキー』を読んで

  • 行動と活動の分け方が面白かった。

 行動ー自然科学的、いつでも測定・定量化、特定可能。p.19

 活動ー社会文化的に産出された人間的行動形態、活動によって文化が生産、差異背に産されるp.24

 

  • 発達の概念の考え方に考えさせられた。

 発達は、自分でない人物をパフォーマンスすることで、自分が何者かであるかを創造する活動p.27

 

 で、今の教育への応用可能性を考えてみた。

①集団での評価ーZPD

 評価は基本個人になされるので、集団を評価するものがあってもいいんじゃないかっていう主張をZPDで根拠づけ出来る。

 

②現在の学校教育=模倣の欠如?

 学校教育の教科型教育によって、何を模倣しているのかわかりにくい。(学者?)その点では生活を重んじる主張と親和性があるなと思った。職業を模倣できればいいが、この模倣という概念はやや厄介。昔は職人の師弟関係からの教育という模倣があってそれが根拠付けられるが、教科型教育が主流である現代教育は、それを模倣すべきだとなってしまう。模倣という考え方によって、教科型教育が徐々に蝕んでいくような様相・・・

 

 フィールドワークの可能性、学校教育だけが教育を担ってはならない、そんなことが言えるような気がした。

 

③発達は誰が判断しているのか?客観を否定しているってことは自分=主観?それとも間主観性に求めるのか?

 他者を演じてパフォーマンスすれば発達なのか?それがのちに全く選択されず、忘却されてしまうと、時間の無駄と言われやしないか?

 

と、ざっくり。メモ程度に。

 

 

 

 

自由学園紹かい(介/会)レビュー

 今日都内某所にて開催、のレビュー、二部構成。

自由学園とはどんなところか
②会自体について

  前置きとして一言。
 僕の言葉は出来る限り中立を保ちたいですが、選択された言葉が何か批判的とすれば、①その言葉の価値が社会的に批判的として捉えられている、②①を利用して敢えて私がそういう言葉を選択しているの2つが考えられます。

自由学園とはどんなところか

 紹介の会(紹かい)の話に行く前に、

A.話を聞く前の私の印象
  自由と学園という言葉が結びついていたので、学園を言い換えて、「自由という記号を掲げた監獄」でした。

B.話
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・自由=靴を脱ぐ自由
脱ぎっぱなしも揃えるも自由だけどどちらが良いでしょね?(ヘーゲルの自由の相互承認かな?

・偏差値よりも人間値
勉強よりも生活。自由学園は「生活即教育」を掲げている。

自由学園=freedom<liberty
解放的なことを意味するfreedomより、他者を意識したliberty(これも自由の相互承認

自由学園の権威性:男子部<女子部
中等、高校は男女で分かれるらしく、①設立者が夫よりも羽仁とも子中心であること②校舎の位置が①のせいか女子部が中心にあることから。

・懇談
a.ベレー帽
女子部の制服にベレー帽がある。それは必ずという訳ではなく「懇談」によって身につけるか否かを決めることができる、生徒はその権利を有する。懇談はディベートとは違って話し合うことそのものに意識が行きやすい傾向、らしい。

b.男子部には懇談係が存在
男子部では意見の調整役が係として決められている

c.懇談でよくある質問:「生活で気になることがありますか」


とまあこんな感じでつらつらと。(全部書くのは面倒臭い、疲れた、読んでくれる人もいないだろうという推測の下、ここで①については終わり。詳しく聞きたい方は、私が個人的に話すか、詳しい人間にお繋ぎします。)

C.話を聞いた後の印象
 全体の話の印象は予想通り、詳しくはもう少し聞きたいところ。(寮の部屋はどんな感じなのか等

②その会について
A.話の仕方
 10数名いる中で1人が中心となって話する形は、話をしている人以外の参加している人の話が出にくい欠点がある。よって私は空気になりすました。話し合う雰囲気が作られないまま、トップダウンの話が行われたため、人と何かいきなり話すのが苦手な私は、お手洗いの後、ある人と個人的な話に逃げ込む(ことに偶然成功)。そして、他の人と話す事は無く帰宅。

B.他の人と話をしなかった理由
 一度場に戻ってみたものの、話が「ガス抜き」であったことから、得られる情報が私の望むものではなかった。



余談
 ①社会×デザインのバイトという考えがなかったが、そういう話が今日出たので早速探してみる 。②今日いた都内某所は某お嬢様学園があるところなので、比較的小綺麗な人がいるので、そういう人が好みの人は行ってみたらいいと思います。③得られる情報が自分の大学とは異なり、それが面白そうな点では今後も是非参加したい。

以上。




「勉強ができる」を考える

  • 勉強ができる→努力できる 

 テストの点数さえとれてしまえば、学校では「勉強ができる」ことを意味するのでしょう。しかし、程度の差は人によってあれども、勉強ができるためには一定の努力を要します。とすると、「勉強ができる」ってのは努力できるということではないでしょうか。

 

  • 努力できる→努力を継続できる

 この努力できる、ってのは言い換えれば努力を継続できることだと思うんです。短髪短時間の努力のみでは、脳は平気でせっかく記憶した情報を忘却していくため、努力した効果も発揮しづらいですし。時間という尺度の中で継続性という指標の下、個人はある程度時間に拘束される必要があるんです。

 

  • 努力を継続できる→出来るかどうか定かではないことへの挑戦を継続できる=情報を周囲の規範を基に選択できる→優先すべき、あるいは必要な情報が何かが理解できる

 しかし、ただ努力を継続したところで、結果を生むとは限りません。1+1を毎日1万回やる努力をされても困ります。出来るかどうかわからないものに取り組み続けることが必要です。つまり、何をやるべきか情報を選択できる能力が必要です。学校のテスト前に出来るかどうか定かではないラスボスのステージをクリアするという努力をゲームでされても困ります。学校は授業の教科の勉強をすることを望んでいます。英語は望んでいても、フランス語はあまり望んでいません。つまり、学校のテスト勉強においては、どの内容をやった方がいいかを選択しなくてはなりません。

 

 

 以上の点を踏まえると、「勉強ができる」とは努力の継続×情報の選択能力によって形成されるものだとわかります。これを踏まえて自分が塾講師や先生になったと仮定して考えると、勉強、つまり学習というプログラムに介入する以上は、徹底的に努力の継続と情報選択能力を身につけさせなくてはなりません。情報選択能力については、今までの学校教育や塾はカリキュラムといったプランによって介入してきたと言えます。しかし、努力の継続性に介入することはなされてきませんでした。それは何故でしょうか。

 

  • 習慣への介入=困難

 その答えは習慣への介入の困難さです。どんなに「Aやったほうがいい」と言っては情報を制限して、より良いと思われる情報を選択させようと仕向けたところで、何もやらなかったら意味がありません。しかし、だからといって「Aやったほうがいい」と言ったその場以外の場で、実際に努力を継続させているかどうかを確かめることは容易ではありません。たとえ毎日何を何時間何分やったか書かせたところで、本当にやったかどうかは四六時中一緒にいない限りは確かめようがありません。

 

  • 優先度:努力の継続性>情報選択能力

 努力を継続させるために、努力する習慣を身につけることが何よりも必要です。たまたまちょっとやって結果が出たところで、その結果を評価するのは、結果が良かったかどうかに過ぎず、過程を考えられません。努力を継続できて初めて、その過程を含めたパフォーマンスをある程度評価することが出来ます。しかし、残念ながら上でお話したように、個人の習慣へ介入して、周囲から身につけさせるには、周囲に常に監視される状況を作るしかありません。そのような環境を作ることが困難であるなら、自分で努力を継続していくしかありません。

 

 勉強ができないならできないなりに、情報を選択し、その選択が周囲に適しているかどうか求め確かめながら、勉強をやってもらいたいものです。

 

周りの大学生はぬいぐるみ

 大学にいると、学部5年生なんてイリオモテヤマネコと良い勝負をする位には、教育学部では絶滅危惧種である。周囲は見る顔見る顔が知らない顔ばかり。こうも知らない顔ばかりだと、こいつらは果たして全員、本当に人間なのだろうかと疑ってみたくなる。その疑いの末、行き着いた先が彼らはぬいぐるみだという仮説だ。

 

 個人的な話になるが、私はぬいぐるみが好きである。彼らは自らは語りかけてはくれないもの、常に愛おしい存在として傍にいてくれる。しかし、その愛おしい存在となるのは、自分の周囲にいる時だ。自分の側にいない、例えばどこかのお店で今売られているぬいぐるみを愛おしいとは、たとえぬいぐるみ好きとはいえ思わない。私の好きなぬいぐるみとは自分の周囲に留まり続けてくれるからこそ、つまり自ら移動せずに常に愛くるしい表情を浮かべながらそこにいるからこそ好きなのだろう。

 

 こうして考えてみると、大学、社会にいる、人間の形をした様々なぬいぐるみは、常に移動をする。私の想定通りに移動することはまずない。そして常に愛おしい表情を見せてくれるわけではない、むしろそんなことはまずない。場合によっては彼らは危険や脅威となることさえある。

 

 だからといって排除するわけにもいかない。それはこちらの勝手な都合である。そこにいる、存在している以上はその存在を認めざるを得ない。しかし、だからといってその相手がその存在を認めてくれるとは限らないというより、まずないと考えるのが、彼彼らをぬいぐるみとして考える視点からは自然だろう。そして、そのぬいぐるみは自ら

動いている、言い換えれば意志/思があるように見えるが、欲望のミメーシスに突き動かされている以上、私以外、つまり他者/第三者によって操られているに過ぎない。

 

 人間を人間として素直に捉えられる人は、いくらかまだそれなりの優しさが残っているような気がした。自分自身もぬいぐるみとして彼らの前に立ち現れて、コミュニケーションをするよりかは、ぬいぐるみの動向を見守っていたい。