『遊ぶヴィゴツキー』を読んで
- 行動と活動の分け方が面白かった。
行動ー自然科学的、いつでも測定・定量化、特定可能。p.19
活動ー社会文化的に産出された人間的行動形態、活動によって文化が生産、差異背に産されるp.24
- 発達の概念の考え方に考えさせられた。
発達は、自分でない人物をパフォーマンスすることで、自分が何者かであるかを創造する活動p.27
で、今の教育への応用可能性を考えてみた。
①集団での評価ーZPD
評価は基本個人になされるので、集団を評価するものがあってもいいんじゃないかっていう主張をZPDで根拠づけ出来る。
②現在の学校教育=模倣の欠如?
学校教育の教科型教育によって、何を模倣しているのかわかりにくい。(学者?)その点では生活を重んじる主張と親和性があるなと思った。職業を模倣できればいいが、この模倣という概念はやや厄介。昔は職人の師弟関係からの教育という模倣があってそれが根拠付けられるが、教科型教育が主流である現代教育は、それを模倣すべきだとなってしまう。模倣という考え方によって、教科型教育が徐々に蝕んでいくような様相・・・
フィールドワークの可能性、学校教育だけが教育を担ってはならない、そんなことが言えるような気がした。
③発達は誰が判断しているのか?客観を否定しているってことは自分=主観?それとも間主観性に求めるのか?
他者を演じてパフォーマンスすれば発達なのか?それがのちに全く選択されず、忘却されてしまうと、時間の無駄と言われやしないか?
と、ざっくり。メモ程度に。
自由学園紹かい(介/会)レビュー
「勉強ができる」を考える
- 勉強ができる→努力できる
テストの点数さえとれてしまえば、学校では「勉強ができる」ことを意味するのでしょう。しかし、程度の差は人によってあれども、勉強ができるためには一定の努力を要します。とすると、「勉強ができる」ってのは努力できるということではないでしょうか。
- 努力できる→努力を継続できる
この努力できる、ってのは言い換えれば努力を継続できることだと思うんです。短髪短時間の努力のみでは、脳は平気でせっかく記憶した情報を忘却していくため、努力した効果も発揮しづらいですし。時間という尺度の中で継続性という指標の下、個人はある程度時間に拘束される必要があるんです。
- 努力を継続できる→出来るかどうか定かではないことへの挑戦を継続できる=情報を周囲の規範を基に選択できる→優先すべき、あるいは必要な情報が何かが理解できる
しかし、ただ努力を継続したところで、結果を生むとは限りません。1+1を毎日1万回やる努力をされても困ります。出来るかどうかわからないものに取り組み続けることが必要です。つまり、何をやるべきか情報を選択できる能力が必要です。学校のテスト前に出来るかどうか定かではないラスボスのステージをクリアするという努力をゲームでされても困ります。学校は授業の教科の勉強をすることを望んでいます。英語は望んでいても、フランス語はあまり望んでいません。つまり、学校のテスト勉強においては、どの内容をやった方がいいかを選択しなくてはなりません。
以上の点を踏まえると、「勉強ができる」とは努力の継続×情報の選択能力によって形成されるものだとわかります。これを踏まえて自分が塾講師や先生になったと仮定して考えると、勉強、つまり学習というプログラムに介入する以上は、徹底的に努力の継続と情報選択能力を身につけさせなくてはなりません。情報選択能力については、今までの学校教育や塾はカリキュラムといったプランによって介入してきたと言えます。しかし、努力の継続性に介入することはなされてきませんでした。それは何故でしょうか。
- 習慣への介入=困難
その答えは習慣への介入の困難さです。どんなに「Aやったほうがいい」と言っては情報を制限して、より良いと思われる情報を選択させようと仕向けたところで、何もやらなかったら意味がありません。しかし、だからといって「Aやったほうがいい」と言ったその場以外の場で、実際に努力を継続させているかどうかを確かめることは容易ではありません。たとえ毎日何を何時間何分やったか書かせたところで、本当にやったかどうかは四六時中一緒にいない限りは確かめようがありません。
- 優先度:努力の継続性>情報選択能力
努力を継続させるために、努力する習慣を身につけることが何よりも必要です。たまたまちょっとやって結果が出たところで、その結果を評価するのは、結果が良かったかどうかに過ぎず、過程を考えられません。努力を継続できて初めて、その過程を含めたパフォーマンスをある程度評価することが出来ます。しかし、残念ながら上でお話したように、個人の習慣へ介入して、周囲から身につけさせるには、周囲に常に監視される状況を作るしかありません。そのような環境を作ることが困難であるなら、自分で努力を継続していくしかありません。
勉強ができないならできないなりに、情報を選択し、その選択が周囲に適しているかどうか求め確かめながら、勉強をやってもらいたいものです。
周りの大学生はぬいぐるみ
大学にいると、学部5年生なんてイリオモテヤマネコと良い勝負をする位には、教育学部では絶滅危惧種である。周囲は見る顔見る顔が知らない顔ばかり。こうも知らない顔ばかりだと、こいつらは果たして全員、本当に人間なのだろうかと疑ってみたくなる。その疑いの末、行き着いた先が彼らはぬいぐるみだという仮説だ。
個人的な話になるが、私はぬいぐるみが好きである。彼らは自らは語りかけてはくれないもの、常に愛おしい存在として傍にいてくれる。しかし、その愛おしい存在となるのは、自分の周囲にいる時だ。自分の側にいない、例えばどこかのお店で今売られているぬいぐるみを愛おしいとは、たとえぬいぐるみ好きとはいえ思わない。私の好きなぬいぐるみとは自分の周囲に留まり続けてくれるからこそ、つまり自ら移動せずに常に愛くるしい表情を浮かべながらそこにいるからこそ好きなのだろう。
こうして考えてみると、大学、社会にいる、人間の形をした様々なぬいぐるみは、常に移動をする。私の想定通りに移動することはまずない。そして常に愛おしい表情を見せてくれるわけではない、むしろそんなことはまずない。場合によっては彼らは危険や脅威となることさえある。
だからといって排除するわけにもいかない。それはこちらの勝手な都合である。そこにいる、存在している以上はその存在を認めざるを得ない。しかし、だからといってその相手がその存在を認めてくれるとは限らないというより、まずないと考えるのが、彼彼らをぬいぐるみとして考える視点からは自然だろう。そして、そのぬいぐるみは自ら
動いている、言い換えれば意志/思があるように見えるが、欲望のミメーシスに突き動かされている以上、私以外、つまり他者/第三者によって操られているに過ぎない。
人間を人間として素直に捉えられる人は、いくらかまだそれなりの優しさが残っているような気がした。自分自身もぬいぐるみとして彼らの前に立ち現れて、コミュニケーションをするよりかは、ぬいぐるみの動向を見守っていたい。
大人の不在
ちょいと一言。
アリエスという人が『<子供>の誕生』を書いたのは1960年。それからもう55年という月日が流れているんですね。この本は、大人と子供という区分に疑問を呈した著書です。一言で要約すれば、彼の主張は「子供も大人だ」でしょう。この子供を発見したのは『社会契約論』や『エミール』で有名なルソーと言われています。
アリエスもルソーも大人という存在を自明視しています。身体的な発達の面で言えば、成人という状態は存在しています。私が着目したい点は内面、つまり精神面です。
この曲を聴いてふと思いました。歌詞の一部を引用します。
不意にぶつかったような実は故意に仕組まれたような問題が
限界を超えた見解に達した
もうわからない
そう、くらだらないと諦める
不正解だと叫んだって正解の正解がわからない
本当のこと言い合っても 何も変わらないかもしれないし
僕らは変わることを怖がってるから
もう何もかも忘れて
もう忘れて
もう忘れて
もう忘れて笑い合って
楽に生きなよ って言われてても
大人じゃないからさ
無理をしてまで笑えなくてさ わかってはいんだけど
気付けば周りがくすんでいた
大人になったふりしても言葉飲み込んじゃうから
悔しく思ってるよ
曲がりなりにも背負ってるつもりなんだ
大人って本当にいるんでしょうかね。私は大人なんでしょうか。道端歩いていく人達は大人なんでしょうか。法律で規定しただけの子供じゃないんでしょうか。
先輩/後輩の規律を重んじることができる人間が大人。空気を読む人間が大人。言いたいこと言えない人間が大人。
みんな子供で未熟な存在なんだと考えた方が、人を変に決めつけたり自分の考えを押し付けたりするようなことが減るような気がするんですけどね。あなたはどう思いますか。
教育を受ける権利と受けさせる義務、間(はざま)で揺れる中学生
中学生が抱えるジレンマってご存知ですか?
今日はそのジレンマについて少し書いてみようと思います。
1.教育を受ける権利と義務について
まず、教育を受ける権利と義務について確認します。日本国憲法には、教育を受ける権利と受けさせる義務が規定されています。
第26条 教育を受ける権利、教育の義務
第1項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
第2項 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。 義務教育は、これを無償とする。
受ける権利は国民全員に、受けさせる義務は現社会では親に付されています。それ故、中学生は教育を受ける権利を有していますが、憲法の規定上では教育においてなんら義務を負っていないことがわかります。
2.高校への進学率
次に、中学校卒業後の最も大きな進路先である高校について確認します。中学校を卒業した後、ほとんどの人は高校に行きます。文科省も「現在、高等学校への進学率は97パーセントを超えており」と書いていることからも、それはわかります。高等学校教育:文部科学省
その現状を踏まえると、高等学校は義務教育状態にあると言っていいでしょう。
3.高校受験
高校に進学するためには、学校の社会的機能の3つのうちの1つの選抜・配分を受ける、つまり高校受験を受けなくてはなりません。*1
その高校受験は大きく3つに分かれて行われます。:①調査書②筆記試験③面接試験。神奈川県では①:②:③=2:6:2、3:5:2、4:4:2といった割合があります。進学校であればあるほど②の割合が高い場合が多いです。つまり、難関校であればあるほど試験の割合が高く、そのレベルが下がれば下がる程、調査書の割合が高いのです。
4.調査書の呪縛
そのため、勉強ができる子は調査書の割合上は学校での立ち振る舞いをさほど気にする必要はありませんが、レベルが低い高校を志望する中学生は前者の彼らは気にしなければなりません。しかし、レベルが高い子も1点で勝負が決まる激しい競争ですから、調査書を無視することは出来ません。それ故、レベルの高い低いに関わらず受験を意識し始めた途端(神奈川県は中2の成績から調査書に入る)、学校に出来る限り行かなければならず、先生の顔色を伺ってくびくしながら授業を受け、受験の時は「その前からある程度勝負が決まっている」という地獄が待っています。私はこれを某遊戯王カードの六〇星の呪縛ならぬ調査書の呪縛と呼ぶこととします。
5.調査書の呪縛の影響
5.1.教育を受ける権利を高校進学のための義務へと歪曲させる
この調査書の呪縛を教育を受ける権利という視点で考えれば、教育は受ける権利であったのに、高校進学のことを考えると学校に行かなくてはならないという教育の義務状態に陥らせています。
5.2学校教育の千日回峰行化
千日回峰行という言葉を知っていますか?それは、比叡山延暦寺で行われる修行で千日にわたり行われる厳しい修行です。体調の良し悪しに関わらず修行を続けなければならないもので、途中で断念する人は自害しなければならないらしいです。ちょうど今日テレビでやっていました。
調査書を優先するのであれば、風邪を引いても怪我しても、学校に行かなくてはなりません。足を骨折しようとも体育は厳しいですが、他教科は可能であるため行かなくてはなりません。もちろん自害しなくてはならないほど学校教育は厳しくありません。しかし、「行きたくない」、「病気」といった理由で学校に行かなければ、当然ですがその日に行われた授業に参加することができません、あるいは参加したことにはならないのが現状です。(世の中便利になってビデオ通話が出来る、SkypeやLINEなら無料で通話出来るというのに、その場にいなければならない。)
5.3学校教育で行われる教科の神格化
どんなにフランス語ができようと中学校では英語ができなければなりません。(受験ではある程度範囲がありますが、あまり人気ではない、例えばウルドゥー語で受験できるかどうかは定かではありません。)フランス語の能力を英語の能力として置き換えるようなシステム、大学で言えば「単位互換」のようなものはありません。教科の勉強さえできていればいいのです。
学校を休んでフィールドワークに出かけてどんなに偉大な発見をしたところで、授業に出ずに教科に歯向かっているんですから、調査書における教科の評価にの面では不利に働いてしまいます。
6.提案:高校受験における調査書の廃止
受験における調査書のせいで学校教育は学校脅威苦になっています。「学校の成績悪くても勉強頑張ればあの高校に行ける!」といった夢が見られません。授業の中でしか学ばせてくれないような構造になっていますが、学校教育は教育の全てではありません。学校の外でも学べることは沢山あります。学校以外でしか学べないことだって沢山あります。それでも学校の中になんとかして引きこもうとする学校脅威苦。必要になったら戻れるような居場所へと早くなってもらいたいものです。
眠いので提案についてあまり考えられず頓挫・・・
*1:学校の社会的機能:①社会化②選抜・配分③正当化
成績依存症の学校教育
成績を付けて通知表にする。しなきゃいけないわけではないのに、そんな余計なお世話をする。成績を付けることですら学習の手段でしかないというのに、成績は学習を個人へと細分化して、その子の学習の成果の全てを物語るかのように、5段階の評定を付ける。その子の進学に、人生に多大な影響を与える。
オール1。
学習の成果を、成績をその子の責任に。学校は知らんぷり。放置。義務教育はその子を置きざりにしてもなお順調にその子を進級させる。
中学3年。高校進学がかかる年。成績が重荷となる。選択肢が限られる。高校に行きたくなくなる。人生を否定的に見る。やっても無駄と無力感がその子を襲う。
成績は教育の手段。教育は学習の手段。全部が逆転している世界、リンゴが落ちずに空へと宇宙へと放たれ続ける世界。それが現実、受け入れろと語り続けてくる。
追伸
私も思い出のマーニーのアンナのようにどこか広大な自然の下で少しばかり休みたい。