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カリキュラムマネジメント、アクティブラーニング、社会に開かれた教育課程・・・不安に駆られる教育現場、新語に群がる「研究」

 

 

「特に変わることはありません、文言が変わるだけです」と文科省官僚。確かに「既にそんなのもうやってるよ」という学校・教員にとっては、官僚と同様のイメージを持つだろう。とはいえ、「やってるよ」学校・教員ですら、「本当にできているのだろうか。」と振り返って(再帰性)、「『私たちの教育』にどのような審判が下されるのだろうか。」と不安に駆られる(教員の教育リスク、説明責任)。

何故、教員はびくびくするのか。そのメカニズムは以下のようであると推測できる。

 

①新語が創出される。

②教員である以上、その新語が出来る/出来ないについて、親・子ども・文科省から判断されること、これが自分の評価、給与に関係してくることが予想される。

③簡略的な区分a. 出来るように努力する。がどこまでができていて、どこからができていないかという水準が明確でないため、どこまでやっても「できていない」ような底なし沼状態に陥る。それでも継続する。

  1. 自分が出来ることに集中。新語に惑わされない。

①-②-③-②-③・・・

①-③-②-③-②・・・

 

しかし、この新語に惑わされるということは今に始まったことではないことから、

(・・・①-②-③-②-③)-①-②-③-②-③・・・

(・・・①-③-②-③-②)-①-③-②-③-②・・・

ということが考えられる。つまり、堆積された不安というイメージを推測することができる。そこで、この堆積された不安、あるいは堆積された不安あえて分離/させた新語創出の不安を軽減しようと、「研究者」達はその用語と既出の他用語との関連を模索し、用語整理を試みる。そして、独自の整理を行う。そのような研究が噴出した結果、その後新語について調べると、「整理」の乱発に混乱する。結局不安は拭えないままになる。

 

時代に合わせて改革していますアピールをする文科省は文言を変えるだけ。その新語に様々な手法を用いて解釈と出来るように試行錯誤する現場。神々しい綺麗な言葉から地上に降り、ここまでであれば十分と救いが来るのはいつになることか。

教育における実践の射程:オリエンテーションでの言葉を踏まえて

 「他の大学院とは違って、本学の大学院では実践を重んじる」そうです。ただの挨拶だと思って聞き流せばよかったのですが、どうも耳に残り、「振り返れ」と脳が指示しているような気がして、ここに書き連ねることにしました。この「他の大学院とは違って」と「実践を重んじる」という発言に至る要因はどこにあるのでしょうか。そしてそれはどのような効果、あるいは問題を生むでしょうか。以下ではこれらの要因、効果、問題を検討していきます。

 

「他の大学院とは違って」、「実践を重んじる」要因検討

要因①:文科省からの予算配分、研究費獲得

 独立行政法人となった国立大学は、予算は国家に握られ国家からの評価を絶えず受けながらも、運営は自身に任せるという構図になっている。そのため、大学は常に国の「顔色」を窺いながら、自身を運営することが求められていることがわかる。その中で大学が予算、研究費を獲得するためには、他の大学の真似事をしていてはそのコトを行っている元祖の大学に予算を奪われてしまうため、独自性に富んだ取り組みを行わざるを得ない。旧帝大のような大学では、既に理論的な研究に打ち勝って予算を獲得することは困難と本学は踏んでいる。つまり、「他の大学との差異による予算獲得のため、旧帝大の強みの理論とは異なるような実践を重んじる。」ということである。

 あるいは、差異が領土、場だけでは評価されていないという言い方も出来る。神奈川唯一の国公立大学での教員養成系という位置づけだけでは不十分なのだろう。場が異なるのは当然だと。その場から超える、脱領土化された、より「普遍的な」価値の差異の中で他大学と競争しなくてはならない。

 

要因②:教育問題の山積

 あるいは、こういう言い方も出来る。教育は問題だらけ。その問題を解決できていない。理論だけでは現場が「どうその理論を用いればよいか」という問いに応答できていないことがある。そして、理論と現場の間に距離が生まれる。そこで、本学が理論を現場へと橋渡し、あるいは実践において「使える」ものを提供することで、社会のニーズに応えようとしている、のだろう。

 

効果:「評価獲得」の比較的容易さ

 実践を重んじれば、その効果を理論よりは比較的容易に検証することが出来る。また社会のニーズに理論よりは比較的早く応えているとも言える。

 

問題:「安易な現場主義」は「安易な『学校=現場』主義」

 T先生は実践を重んじることは「安易な現場主義」に陥りかねないことを指摘していた。確かに、現場に追従するだけでは理論を軽視しかねない。そこで、「実践を重んじる」ことを、「理論―実践における実践の強調」と言い換えておこう。つまり、実践を重んじるこことは、理論を軽視するのではなく、理論を現場へと橋渡ししながら、より有用な実践を開発・形成していくことである。

 しかし、この「現場」とは具体的にどこを指しているのだろうか?学校だけだろうか?学校が教育の最大の担い手、中心であることは認めるにしても、学校が現場という言葉を独占することは、教育の機能が個人・家庭・企業・地域・社会・環境それぞれが担っているころから、困難である。つまり、学校は教育の「一」現場に過ぎない。仮に、現場=学校という構図が出来上がっているとすれば、それは「安易な『学校=現場』主義」として、その実践が批判的に検討されなくてはならないだろう。また、何故学校が現場という言葉にすり替えられてしまうのか?という問いを基に、現場が学校という組織に統一されることなく、多様な個人、集団の中で、あるいはそれらと連携しながら教育における実践を検討していく必要がある。

 よって、教育における実践の問いは以下のように移行・細分化される。従来は「いかに学校での実践をカイゼン・カイカクするか」という問いばかり検討されてきたが、まず、①「中心とされる学校が、周縁よりも優位に立つ実践/周縁が比較優位な実践とは何か」を決定し、学校自身での実践の範囲、射程を決めた後に、②「(中心/周縁それぞれの)優位性に立つ実践は社会にどのように求められているか」について言及し、③「その実践が継続するに値するものかどうか」について説明する。ここまでは中心/周縁と分離し、それぞれの実践の検討についてだが、その検討に加え、中心と周縁が双方関わるという連携の中での実践について、①~③の問いに関して言及・説明しなくてはならないだろう。

 ここまで教育における実践の範囲が学校に留められてしまっている仮説という「閉じ」から、個人や他の組織における教育の実践という形で、教育実践の可能性を開いてきた。ただ、これまでの私の説明は、「閉じていたものを開け」と述べているにすぎず、「どのように開いていくか/いけばよいか」という問いについて言及していない。この私の微々たる開きから、多様な「主体」が教育実践の可能性をを更に開いていくことを期待している。

「勉強できない」、「勉強が出来るようになるには」に答える

 

書くにあたって

 本や論文を読んで学ぶようなインプットだけでなくて、書くこと(カッコよく言ってエクリチュール)のようなアウトプットで学ぶことも大事だなあと思いつつ、アウトプットによる学びを習慣化できずにいる現状があって、それをもどかしく感じているところです。これを機に、learning by addressing(似たような用語があったような)によって①自分が学んでいけたらなあ、②それが誰かに読まれることでその誰かにとっても何らかの価値を有してもらえればなあと思って書き記すこととします。

 ということで(論理の飛躍をしつつも)、このブログを教育研究所なるものとして自設します。今日はその第1弾ということで、「勉強が出来ない」「勉強が出来るようになるには」という言葉に(勝手に)お答えしてみようと思います。以前にも「『勉強ができる』を考える」というブログで似たようなことを書きましたが、もう少し精緻化してみようと思います。

 

1.「勉強が出来ない」「勉強が出来るようになるには」の範囲設定

 言葉を用いることさえできれば、「ゆりかごから墓場まで」これらの言葉を誰でも発することが出来ます。万人を対象にするとイメージがぼんやりとしかねないので、ここでは学校に通う児童生徒(小~高校生)を対象の範囲として設定します。そのため、大学生や社会人におけるそれらの言葉をここではあまり考慮していません。

 

2.結局は「テストで100点取れればいい」仮説

 いきなり結論から言えば、彼らの言う「勉強が出来る」が意味しているものとは、テストで100点を取ることではないでしょうか。テストで100点取っている人に「勉強できない」とは言えないでしょうから。この仮説を出発点に考えると、問いは「勉強が出来る」ことから「どうやったらテストで100点取れるか」という問いへと移ります。

 

3.「どうやったらテストで100点取れるか」の範囲設定

 テストで100点を取るには2つの選択肢があると考えます。①カンニングといったいわゆる「不正」を働く。②a. 勉強で覚えた記憶を脳内に留めて、その用語・公式等をそのままテストでアウトプットする。 b. a.のような複数の用語・公式を組み合わせてテストでアウトプットする。

 ①を求めている人は、頑張ってください。残念ながら、私はその方法を持ち合わせておりません。カンニング行為がそもそも「正当」であるようなテストを作るように、テスト作成者に打診してみてください。ここで考慮したいのは②の選択肢です。ここでも「どうやったらテストで100点を取れるか」という問いが「どうやったら記憶を留められるか」と、「どうやったら記憶を組み合わせられるか」という問いへと移っていることがわかります。

 

4.「どうやったら記憶を留められるか」に対する答え

4.1.「どうやったら記憶を留められるか」の問いの移行

「記憶術のやり方 暗記する方法のまとめ」(http://mnemonic-device.info/19-memory.html )※2016年3月26日取得

 

 このサイトにもあるように、私達の脳は全てを記憶できません。あるいは忘れるように出来ているとも言えます。また、脳の記憶量に関しては、1週間後には元の10分の1にまで低下するとも言われています。(10問中10問できたものも、1週間後には1問しかできない可能性が)そのため、記憶を留めるには反復が求められます。

 といっても1つのことを反復し続けることは可能だと思いますが、テスト範囲全ての情報をただ読む、書くだけの反復で記憶を留めるのは困難です。また。テスト自身も一生のいつか受ければいいわけではなく、2週間後といったように期限があります。そのため、ただ情報を記憶して、それを反復すればいい訳ではなく、限られた時間の中で、情報を効率よく記憶に留める必要があることがわかります。つまり、記憶法が求められます。

 しかし、これは万人受けするものは存在しません。自分の中で試行錯誤していく中で記憶法を編み出していくことが求められているような気がします。とはいっても、「どのような記憶法があるのか」という問いから、記憶法をいくつか見つけては、そこから自分に合ったものを選択することが求められます。よって、ここでも「どうやったら記憶を留められるか」という問いは「どの記憶法が自分には合っているか」という問いへと移っていきます。

 

4.2.おススメする記憶法 

 単純に何回も書いて、問題を解いて覚える、そのような記憶法も存在しますが、単純な反復よりもおススメする方法はウェビングマップです。

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中心にキーワードを置いてそれに関連するキーワードを並べていくものです。ノートに直接記録する方法もありますが、後で構成し直せないので、それらのキーワードを付箋に書いてそれをノートに貼ることを勧めます。ちなみにこれは単純な記憶、つまり単語や公式を覚えるため、3.②a.のための記憶法です。どの考え方が正当かはわかりません。あくまで自分の経験から導いた、仮説的なもの、意見ですが、情報は1+1+1・・・のように単純に足し算で記憶するよりも、他の関連する情報との違いから記憶し、ウェビングマップのように様々な関連する言葉の違いの集合を1として記憶していく方がわかりやすい気がします。イメージとしては、パソコンのフォルダです。「記憶の組み合わせ」も結局はこの集合としての1という情報量になるように、パターン化していくという作業です。そこから、記憶の組み合わせのパターン化に慣れるためには、ある程度演習の反復が求められることがわかります。

 

4.3.学習の習慣化

 しかし、自分に合った記憶法を見つけ出したところで、時間が経てば忘れますから、その記憶法を継続する、つまり学習を習慣化する必要があります。そのためには他の誘惑(いわゆる「サボロー」)に打ち勝たなくてはなりません。とはいえども、それらの誘惑をテスト本番まで断ち続けるのは困難です。また、1つのことを継続してずっとやり続ける(例:5時間ぶっ通しで数学の勉強)ことも好きな教科や得意教科であれば可能ですが、苦手・嫌いな教科になると不可能に近くなります。そこで、生活時間割と学習報告書の作成をおススメします。

 まず、生活時間割は、平日と休日に分け、何時に起き、食事し、お風呂に入り、寝るかを決めます。その残り時間が学習時間割にあてる時間です。とはいっても先述したように、ぶっ通しで勉強することは不可能に近いです。1教科X分のように決めてみてください。初めは1教科15分から始めてみるのがおススメです。徐々に伸ばしていき、1教科のテスト時間(学校なら50分程度)まで伸ばしてみましょう。

 次に、学習報告書です。

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これも平日と休日に分け、目標時間と実際に勉強した時間、そして学習内容を書き記します。実際に勉強した時間が1か月の合計の目標時間を上回るように、自分のプライベートを調節します。こうやって学習時間を確保し管理していきます。これら生活時間割と学習報告書をお家の方などの周囲の人に見せ、監視してもらいます。

 

4.4.それでも嘘を付きそうなあなたへ

 しかし、これらをただ記入して、あたかも勉強したかのように見せかける嘘を付くことも可能です。「続けられるか不安」と思うそんなあなたは、今のこの時代、ニコ生やツイキャスのように自分の様子を動画で配信することが出来るので、それを利用してみてください。そうすると周囲の目が絶えずあるため、嫌でも勉強している姿を見せなくてはなりません。この多数による小数の監視をシノプティコンと言います。実際に、高知県知事の尾崎正直さんは知事室の様子を24時間中継しています。

知事室ライブ中継 | 高知県庁ホームページ」

http://www.pref.kochi.lg.jp/chiji/live.html)※2016年3月26日取得

 

5.監視までされる必要のある勉強への違和感

 ここまで徹底管理すれば/されれば、テスト100点は間違いないでしょう。でも、どうでしょうか。何故そこまでしてテストで100点を取って、良い成績を残さなくてはならないんでしょうか。そこにはどのような意味があるのでしょうか。次回はその「テストで100点を取る意味」に関して考えてみたいと思います。

 

ではまた。

 

 

教育への懐疑

教育は教育でも人間形成でもなく、単なる試行錯誤ではないでしょうかね。

①概念としての評価と実態としての評価 、②遊びの理想化について

①概念としての評価と実態としての評価

「気に食わない」と一蹴されたことが気に食わなかったので、/「気に食わない」は「気に食わないので詳しく」ということだと思って、気が済むまで書いてみようと思います。

 

 まずは言葉遊びではないが、並び替えてみる。逆にして、評価の概念とその実態と言うとしっくりくる。ここで言う、実態、概念はなんだろうと考えてみると、

 

評価の実態=概念+制度化されている(学校、就活、試験等)

評価の概念=概念ー制度化されている→僕が指す概念は概念ではなく別の何か

 

→制度化された評価に対する問題視であることがわかった。=A先生の指摘通り

 

 制度化された評価の問題点は、別様であることが不可能な点。評価を用いて他になろうとすれば別様になれるが、問題はその意思が無ければその評価で確定し、固定化される。例えば国語で1を取ると、それで終わる。「いや、私は2!3!」と言ってその評価を拒絶することが出来ない。

 

 学校教員が用いる「評価は必要」論は、「生きていく上では他者準拠が必要」に過ぎない。他者は必ずしも教員である必要が無いため、他者準拠が必要なことを理由にして教員の評価を正当化させることは出来ない。児童生徒に「先生の評価は、授業でのパフォーマンスしか見ていないから、その教科の評価ではない。よって嘘偽りでしかない。」と言われても対抗できない。

→学校教員による評価は不必要。他者の評価は必要。

 

②遊びの理想化

 「遊べばいい」かのように話が終わってしまったのは、多分遊びと労働を分離して、今は労働ばかりになっているから、少しは遊んだ方がいいのでは、位の「遊べばいい」という意見だったのでは。求めているのは、遊びと労働を統合して、常にどちらもできるような状態にしておけばいいのでは。

 

 次に、労働を失敗のできない活動(小さい失敗は出来るが致命的なミスをすると解雇される)と、遊びを失敗のできる活動(ゲームオーバーになっても大丈夫)と捉えて、考えてみる。失敗を極端な話、地球爆発位の失敗だと困る。失敗に対してある程度許容範囲があることがわかる。そうなると、「現代社会は失敗に対する寛容が出来なくなってきているから、遊びを媒介にしてちょっとは寛容的になろうぜ」ってことになりませんかね。そうすると、上の今は労働ばかりになっているから論と同じになる。

 

 遊びを理想化してしまうと、遊びを悪用する人が出てきてしまう、例えばテロは遊びだ!と言って「正当化」しようとする。それはさすがに困ります。

 

 あるいは、遊び/労働論は「他者の距離が遠すぎる/近すぎる」ことを問題視しているのかも。過度に労働になれば、主体の物象化が進行し、しまいには「単純な機械」と思われる。あるいは物象化による疎外によって、他者との距離が自分の必要以上に近くなる。(例:労働は自分のためでしかないのに、労働するには、他人のために働かなきゃならないから、お客さんの前では愛想笑いを振る舞ってなきゃいけない)

 

とメモ書き程度ですが。(要するにコメントください)

 

 

 

 

学生を追い出す大学

 大学で学生が使える空間が今、大学の権限によって縮小されてきている。その理由は、高等教育そのものの予算が削減されていることから、どこが「無駄か」を大学側は考えなければならなくなっているためだ。

 

 「禁止」の文字が以前より見られるようになった。以前は無かった「学生の印刷室使用禁止」、「部屋の利用禁止」が部屋に掲げられるようになっている。

 

今日もその場面に出くわした。普段研究で使っている部屋に「授業で使用させていただきます」と張り紙がされていることに気付いた。

その部屋の中では「当たり前」のように授業が行われていた。

 

 この部屋を建物賃貸借に置き換えて考えてみると、

急に家地主が「立ち退け」と言ってきた。しかし、契約は継続が原則だ。正当事由が無い限りは立ち退きを強制することは出来ない。そこで、家主は「授業で使用するため」という「正当事由」を掲げてきた。

 

果たしてこれは正当なのか?他に利用できる教室はいくらでもある。もちろん私自身ももちろん他に利用できる空間はある。しかし、習慣的に今まで使ってきたにも関わらず、急な立ち退きは可能だろうか?

 

仮にこの要求が正当であったとしても、その様相は大学が「学生は授業料だけ払え。私達の施設を出来る限り利用するな。他でやれ」と学生に言っているようである。

大学にとって学生は授業を受けている時以外は邪魔なのだろうか。そのような大学は大学と名乗っていいのだろうか。地域や企業と連携する前に、学生の存在を蔑にしてはいないだろうか?

 

 

 

人助け、お手伝いの可能性

 人助けやお手伝いは、困っている人からすれば、度が過ぎて余計なお世話にならない限りは、助かるありがたいもの。

 

でも、これ手伝う側の人間にとってもありがたいものなのでは?

 

①自己表現の場を1つ設けることが出来る

 私を例に取れば、今の私は閉鎖的。ゼミとバイト位しか人に会うことがない。自分を表現する場はこの2つ。もちろん、最近では他人と知り合うことはまずない。

 この状況を、人助け・お手伝いを媒体にすることで、自己表現できる場を増やしていける。

 

②学習できる

 お手伝いや人助けのほとんどがきっと自分の知らない世界。その世界に身を投じるのだから何か学びになることがあるはず。

 

と思って、人助けって良いなあと。これを「問題解決学習」や「プロジェクトメソッド」やらの視点を取り入れて、塾開けないかなあと。

 

話題は少し変わりますが、他にも「○○おばあちゃんの料理教室」を中高、大学生向けに開いて「自分で生活できる術を身につける」ことを目指すことなんてできないかなあ。この教室から高齢者と若者の繋がりが生まれてくれないなあと。妄想。